ひろこの睡眠学習帖

寝言のようなことばかり言っています。

誰にも信じてもらえない体験

お題「誰にも信じてもらえない体験」

 

3年ほど前のことだ。
わたしの夫は魚釣りが趣味だ。海の近くに住んでいることもあって、わりと頻繁に釣りに出かけている。

ある日曜日の午後、夫は釣り上げたサバを手みやげに帰宅した。
新鮮だから、半身はお刺身にして、半身はシメサバにしよう。小さいのは塩焼きにしようか、といいながら夕飯を作った。
やっぱり、新鮮なサバは違うねえ、と言いながら夫も私もバクバク食べた。
おいしいおいしい、と言いながら、あまりよく噛まずに、私は食べてしまった。
サバは本当に美味しかった。それは間違いないのだけれど、そこからが問題だった。

その夜、私は調子に乗って食べ過ぎたせいか、少し胃がもたれていた。

「起きてても苦しいし、先に寝るわ」

そう言って、さっさと寝ることにした。
身体をふとんに潜り込ませても、胃がムカムカするのは変わりない。気持ちわるいまま眠れるだろうか? 少し吐いた方が楽になるかな? そう思ったけれど、せっかく夫が釣ってきた魚を吐き出してしまうのも、申し訳ないか……。そう思って、横になっているとウトウトまどろんで、いつの間にか眠ってしまっていた。

翌朝になると、少し胃の違和感は残っているものの、昨夜よりはスッキリしている。やっぱり調子に乗って食べ過ぎたんだな。そう思って、仕事に行く支度を済ませ、会社へ向かった。
会社までは電車で小一時間かかるのだけれど、その日は電車の中で妙にニオイが気になってしまった。香水のニオイがキツい人がいる訳でもなかったけれど、衣類の柔軟剤のニオイや、体臭なんかがまとわりついてくるようで、鼻の中にベッタリと、こびりついてきた。
昨日あんまり上手く眠れなかったし、体調があんまり良くないのかもしれない。
今日はなるべく早めに帰らせてもらおう。
そう思いながら、仕事に向かった。

職場でも、いつもは全然気にならないニオイがやたらと気になる。やたらと身体がだるくて、全然集中できない。気分転換にコーヒーでも飲もうと思っても、ちょっと口をつけただけで気持ちわるくなってしまった。いつもはガブガブ飲んでいるのに、まるで泥水でも飲んでいるかのようで、一口も飲めなかった。
社長に「顔色わるいし、早めに帰ったら?」と言われるほどだった。

早退することにして、夕方の帰宅ラッシュの前に電車に乗ることができた。だけど、そこからが辛かった。朝よりも、やたらとニオイが気になってしまい、吐き気すらもよおしてくる。途中で電車をおりて、何度かトイレに立ち寄りながら、やっとの思いで帰宅した。
食欲なんて全くないし、食べ物のニオイも嗅ぎたくなかった。
「気持ちわるいから、今日はご飯作れない。もう寝ます」とLINEを送って、早々と寝ることに決めた。昨日食べ過ぎたことが引き金なのだろう。胃薬を飲んで、さっさと寝てしまおう。一時的な胃炎か何かだろう。そう思っていた。

 


朝はなんとか我慢できるけれど、夕方になると突然吐き気がこみ上げてくる。食事をしたいとも思わない。仕事には一応行っているけれど、通勤がかなりつらかった。電車に乗るのが怖い。かといって、家にいても、臭いに襲われるような感覚がまとわりついていた。お隣のお家の夕食のニオイ。洗濯物の生乾きのニオイ。食器に残っている、かすかな洗剤のニオイ。それらすべてのニオイが、私の鼻の中にベッタリとこびりついて、吐き気をおこさせるのだった。
「もしかして、つわりの症状なのかも?」とも考えてみたけれど、おそらく、妊娠はしていない。
なんだろう? 私の身体が、なんだか分からないうちに変わってしまったのだろうか? このまま、私の身体は、おかしくなってしまうのだろうか? 気味の悪さを感じながら、ようやく金曜日も終わりを迎えた。

土曜日の午前中に病院に行けばよかったけれど、疲れきって眠りこけてしまい、気がつけば夜になっていた。一歩も外に出ていないけれど、夜になるとやっぱり気持ちわるくなる。何も食べていないけど、トイレで吐いてしまった方が楽だろう。そう思って胃液だけを吐き出した。すると、吐き出した胃液の中に、何か、蠢くものがいる。
便器の水の中に落ちないで、手前に引っかかっていた。

 


「うわああああああ」

 


あまりにもビックリして、とっさに叫んでしまった。
夫がトイレに走ってきて、「大丈夫?」と心配そうに声をかけた。
「なんか、動いてる! そこ!」
私は便器を指差して、さっき私の口から飛び出してきた蠢くものを夫に知らせた。


「うん? ……寄生虫? アニサキスか?」

 


アニサキス

 


サバについている寄生虫の名前だ。
サバにはよくついている寄生虫なので、夫はわりと冷静に判断していた。
確かに数日前に、お刺身にしてサバを食べた。そこにいたのだろうか?

夫は割り箸を持ってきて、5ミリくらいの大きさの蠢く物体をつまみ上げ、広げたサランラップのうえにペトリと置いて、じっくりと見ていた。
「うーん。これはアニサキスだと思うけど。サバ食べたのいつだっけ? 日曜日だよね? そんなに胃の中で、生きてるのかな?」


アニサキスという寄生虫は、人間の胃のなかに入ると、胃に噛みついてくっつこうとする性質がある。そのために強烈に胃が痛くなって、食べたその日のうちに救急車で運ばれることが多いという。一週間も胃の中で生きていた話を聞いたことがなかった。私の口から飛び出してきた生物が、はたしてサバについていた寄生虫なのか、また違った、別の寄生虫なのか、判断できなかった。


夜間に対応している病院へ行ってみた。

もしも、私の胃の中に、まだこの寄生虫がうじゃうじゃいたらとおもうと、怖くなったからだ。けれど病院に言っても、そのサランラップに包まれた生物については、分からないと言われてしまった。痛みの症状が出ていないのなら、緊急で胃カメラ検査をする必要がないという診断だった。ベテランの看護師さんが「あらー、これはアニサキスっぽいわね」と言ってくれたけれど、断定はできないということだった。
一匹吐き出したからか、体調不良の原因が何となく分かったからなのか、その日は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

週明けに、かかりつけの内科の先生に診てもらいにいった。例のサランラップに包まれた、寄生虫らしき生物も、もちろん持っていった。

先生に、これまでの一部始終と、サランラップの包みを見せた。すると、先生は、

「あー、アニサキスですね。口から出てくるなんて、めずらしいですねえ」と笑いながら診察してくれた。


「あのー、もう一匹いるっていうことはないですか?」

私は心配になっていたことを恐る恐る訊ねてみたけれど、

「そんなに何匹もいないでしょう。まあ、仮にもう一匹いたとしても、人間の体内では長く生きていられませんから。長くても一週間ぐらい。もう死んでると思いますよ」

と、あっさりと言われてしまった。
「生きた状態で、吐いたときに出てくるなんてね。初めてみたよ」

先生は興味深げにサランラップに包んであった寄生虫を見ていた。
「もしかしたら、まだ多少違和感があるかもしれないから胃薬出しとくよ。違和感がなければ飲まなくて良いから」そう言われて、診察は終了した。
確かに、吐き出したあとは、スッキリしていて、これまでのムカムカした気分は一切なくなっていた。

だけど、5ミリくらいの大きさの、あの寄生虫は、私の一週間を確実に支配していた。食事をとることもできず、ニオイに敏感になりながら吐き続け、外出すら恐怖に感じられたのだ。明らかに私の行動を、支配していたのだ。

 


口から生きた状態の寄生虫を吐き出したなんて、誰に言っても信じてはもらえないけれど。