ひろこの睡眠学習帖

寝言のようなことばかり言っています。

海水浴とビックリマンチョコの後悔〜じんましん外伝〜

多分、小学三年生の頃だったと思う。

私の家族は年に一回、日帰りで海水浴に行っていた。大阪に住んでいたので、兵庫県にある須磨海浜公園という場所で、水族館を見た後に海水浴をちょっとだけ楽しむという今思えば結構ハードな旅だった。

 

私は魚を見るのも、海で泳ぐのも大好きだった。年に一回、波が高ければ中止になってしまうので天気予報を祈るように見ていた。

小学三年生のときも、それはそれは楽しかった。海に入り、浮き輪をついてバシャバシャとバタ足しながら姉と思い切り遊んだ。

充分遊んだし、そろそろ帰ろうかと海の家に戻って水着を着替えようとしたとき。ふと、母が私の身体をみて「あれ? ひろちゃん、カラダ、ぼちぼちと赤くなってるやん? どうしたん? かゆい?」と心配そうに聞いてきた。私自身、どんな風に赤いぼちぼちが出ていたのか、全く記憶にない。けれど心配かけたくないと思って「大丈夫やでー」と答えたことだけ覚えている。

 

そして、その日から。

私のじんましん人生が始まったのだ。

まぶたや唇、脇の下。皮膚の柔らかい箇所がぷっくりと腫れるようになってしまった。時には、太ももや、二の腕や頭皮まで。はじめは小さくポツンと膨らむのだけれど、やがてそれは広がっていく。掻いちゃダメだと言われても、ついつい無意識のうちに掻いてしまう。そうすると、またじんましんは広がってしまい、他の場所に出ていたものとくっついたりしていた。

 

あまりのことに、かかりつけのお医者様に診てもらいにいくと、先生も少し首を傾げていた。けれど、おそらく何か原因があるはずだと言って、私の母に「どんな時にじんましんが出ているか」を記録するように指示した。食事内容や、日中の出来事。朝起きたばかりのときはどうか。お風呂上がりはどうかなど。そして一週間経ったらその記録をもって、また病院へ行くことになった。

記録をつけてみると、何となく「油っぽいもの」を食べた後にじんましんが沢山出ているようだった。おやつにドーナツを食べたら、その一、二時間あとぐらいからじんましんは出てきていた。だけど蒸しパンならば問題ない。唐揚げを夕飯に食べるとひどいじんましんが出るけれど、鶏肉を油をひかずに焼いたものならば、じんましんは気にならない。卵焼きはダメだけれど、ゆで卵なら大丈夫。

同じ食材でも調理方法によっては食べるとひどいじんましんが出た。また、鶏肉もモモ肉は少しじんましんが出るけれど、ササミなら大丈夫という具合だった。

 

病院の先生も血液検査とかいろいろと調べてくれたものの、はっきりとした原因はつかめなかった。母がつけた記録をみて「油のアレルギーの可能性が高いから、できる限り控えるように」と診断された。そして毎食後飲むように、と粉薬と錠剤の二種の薬を飲むことになった。

あと、なぜかトマトを食べることを勧められた。生のトマトか、トマトジュース。当時はあんまりトマトが好きじゃなかった私は「うえぇ」と思ったことを覚えている。

 

私だけ別のメニューにするのもかわいそうだとして、我が家の食事からは揚げ物は出なくなった。姉はかなり不満そうだっだ。けれど、私の全身に広がるじんましんを見るのも、ちょっと気持ち悪いと言っていたので、しぶしぶながらも我慢してくれていた。おやつまでは全部一緒というのは難しかったみたいで姉は私がいない時にはチョコレートとかケーキみたいなものをこっそり食べていた。私はお饅頭とかお煎餅しか食べられなかった。

 

そうこうしているうちに、夏休みも終わり二学期が始まった。私が通っていた小学校では給食が出されていた。給食には「大おかず」と「小おかず」、パンまたは御飯と牛乳というものだった。たまに、ゼリーとか冷凍ミカンといったデザートもついていた。

しかし、給食は意外と油で揚げてある食べ物が多かったのだ。小おかずには、イカの天ぷらや、小エビの天ぷら、南蛮揚げ、鳥の唐揚げなんかがメニューとして出されていた。大おかずのカレーとかも体調によっては危険だった。

もう30年も前のことだから、今ほどアレルギー体質の人に向けた給食の対応なんかはされていなかった。事前に配られている給食の献立表を見ながら「ああ、今日は天ぷらだから食べられないね」となれば、母が連絡帳に「今日の給食の小エビの天ぷらは食べられませんので、配膳しないで下さい」などと書いてくれていた。

まわりのみんなが美味しそうに食べていて、私はとても羨ましかった。みんなが美味しそうに食べているのを、ヨダレをたらさんばかりに、ちらちらと見ていた。小おかずの代わりのものを持っていっているわけじゃないので、単純に食べ物の量が少なかった。ごはんと牛乳だけってときもあった。(それは、とても最悪な組み合わせだった)

だけど、つまみぐいをしようとは思わなかった。やっぱりじんましんが出ると痒くてがまんできない。それ以上に見た目が気持ち悪くて、自分がバケモノか何か、人の目に触れてはいけない存在に変身したんじゃないかと思い込むほどだった。

 

油もの、油脂をたくさん含んだ食べ物を避けてきたけれど、一向に良くなる気配は見受けられなかった。

ただ一度だけ、じんましんが出ると分かっていても、どうしても食べたくなったおやつがあった。

それは、ビックリマンチョコだ。

砕いたピーナッツが含まれたチョコレートがウエハースでサンドされている。ピーナッツも、チョコレートも食べると絶対にじんましんが出る。

私はじんましんに悩まされるまで、ビックリマンチョコを食べるのが好きだった。ウエハースの下に隠されているオマケのシールを集めていた、というのもある。けれど、ウエハースのお菓子そのものも好きだった。

 

母と一緒に行った病院の帰り道に、夕飯の食材を買いにスーパーに立ち寄ることが多かった。私はなるべく、お菓子売り場には近づかないように気をつけていた。食べてみたいおやつ、美味しそうなおやつはたくさんある。でも、食べられるわけじゃない。悲しい気持ちに薄っすらと覆われてしまうだけだった。

しかし、ある日。お菓子売り場とは離れた場所にビックリマンチョコが並べられていた。「入荷しました!」という目につくPOPとともに。

私は母と歩いていて、そのPOPを見た時に、思いっきり目を逸らした。見たくなかったからだ。ちょっと前までなら「お母さん、ビックリマンチョコ買ってー」と無邪気に言えたのに。今はそんなこと言えやしないのだ。だか、母は私の不自然な首の動きに気がついたようだった。

「最近、調子も良いし、ひとつ買ってみよか?」母は、私に覗きこむようにしてたずねてきた。「食べても大丈夫やと思う……?」おそるおそる、私は母に聞いてみたけれど「さあ、どうやろねー?」と言った。でも、続けてこうも言った。「ひろちゃんが食べたいな、って思うならひとつくらい食べても良いんちゃう? 後で痒くなるのはひろちゃんやけど」そう言って、いたずらっぽく笑っていた。

「うん」私は笑顔で頷いて、ひとつだけビックリマンチョコを買ってもらった。

 

家に帰って、久しぶりに食べるビックリマンチョコに私は興奮した。パッケージのギザギザ端を丁寧にちぎって、四角いウエハースのお菓子を取り出した。楽しみにしていたオマケのシールは、なんだかよく分からない悪魔のシールで、正直ちょっとガッカリした。けれど、久しぶりに食べたそのお菓子の味は、やっぱり美味しくて嬉しかった。

食べた後には、当たり前でしょ? と言わんばかりにじんましんが沢山出てきた。痒くて嫌だったけれど、おやつを食べたのは自分なんだから、この痒みには耐えてみせる! となぜかスポーツマンガの主人公のような根性を見せていた。

 

そのじんましんは、一年半ぐらい続いていた。けれど、ある日突然治ったのだ。治った日のことは覚えていないけれど、1月の初めだったのは覚えている。初詣にあちこちの神社に家族で行ったりした。比喩でも何でもなく「神頼み」をしたことがよかったのかも知れない。調子にのってお餅をたくさん食べた後にひどくお腹を壊したことがよかったのかも知れない。本当に、なぜ治ったのかは分からない。病院に行っても、治った理由は分からなかったけれど「何か体質改善されたんやろうね」ということだった。

 

今まで禁止されていたものが、解禁となってもやはりすぐに手を出すのは怖かった。そして、私も少し成長したせいか、もうビックリマンチョコは食べたいとは思わなかった。ビックリマンチョコのブームも終盤だった。

 

未だに、母と「あのじんましんは何だっのか?」と話すこともある。もしかしたら、また油ものが食べられなくなるかも知れない。

それは、誰にも分からない。私自身でさえも。

突然現れて、突然去っていった台風のような出来事は、できることならば、繰り返さないでほしいと願っている。