ひろこの睡眠学習帖

寝言のようなことばかり言っています。

苦手だったおじいちゃんのこと

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

 

私の記憶の中では、父方母方、両方ともにおじいちゃんは「偉そうにしている」という印象が残っている。

もちろん、戦前戦後を生き抜いてきた世代の人達だし、男の人が敬われるという時代だったから仕方がないことかなとも思う。

 

しかし、私はその「偉そうな態度」がとても苦手だったし、ちょっと怖く感じていた。特に母方のおじいちゃんは苦手だった。

 

母方のおじいちゃんは、市場で働いていたため、声が大きかった。腹に響くほど、ほとんど怒鳴り声に聞こえた。子どもの私にとっては、まずそれが怖かった。いつも、何か怒っているように感じてしまい、できる限りおじいちゃんに近づかないように心がけていた。

ただ、おじいちゃんは言葉数の少ない人だった。「おい!」とか「まだか!」みたいな単語を叫ぶことが多かった。その言葉はおばあちゃんか、母に向けられたもので、子どもの私になにかを伝えることは、ほぼ無かった。

 

おじいちゃんは、多分、私の名前も覚えていなかった。いつも「よしこ(母の名前)とこの子どもは、いくつになったんや?」とか、「おい」と言いながら私を指差して「お茶、もってこい」などと言われていた。

母に言わせると「あー、おじいちゃん名前覚えてないかもなぁ……。一緒に暮らしてるわけじゃないし、覚えても忘れてしまうんやろ」と苦笑いしていた。

ひどくないだろうか? 孫の名前を覚えないなんて。でも、おじいちゃんにしてみれば孫の存在はあまり興味の対象じゃなかったのかも知れない。

ある年、お正月の挨拶をしに母の実家に行った時のこと。おばあちゃんと、おじさんからお年玉をもらってキャッキャと喜んでいた。しかし、おじいちゃんはお年玉をくれなかった。「なんでそんな子どもや孫にやらなあかんねん。あげるお金があるなら、ワシにくれ」と言って、その場を凍りつかせていた。そして、おばあちゃんとおじさんは、おじいちゃんに対して「そんな屁理屈、正月から言うな!」と怒られていた。

私はますます、おじいちゃんが苦手になってしまった。

しかし、そんなおじいちゃんでもちょっとは笑えるエピソードがあった。

おじいちゃんは足が悪くて、いつも座っている場所が決まっていた。

客間の本棚にもたれている。それが定位置だった。本棚には扉にガラスがはめ込まれていた。いつもは本棚と壁の両方にうまく体重を分散させて座っていたのだ。けれど、法事があってたくさん来客があり、客間には入れ替わり立ち替わりお客様が来ていた。おじいちゃんも、少し定位置がズレてしまったようで、ガラス面に体重をかけてしまったようだ。

 

パリンッと音がして、ガラスは簡単に割れた。

おじいちゃんは、しまった! という表情を一瞬浮かべたのち「おい!」と大声を出して人を呼びつけた。私は距離を保ちながらも、割とおじいちゃんの近くにいたので「おかーさん! おじいちゃんが、ガラス割ったー!」と言いつけた。するとおじさんと、母の二人がバタバタとやってきて「この忙しいときに、わざわざ仕事増やして!」とおじいちゃんを怒鳴りつけていた。

「じいさん、ガラスが下にたくさん落ちて危ないから、ちょっとジッとしててくれるか? 先にガラス拾うから」おじさんがホウキとチリトリを持ってきた。おじいちゃんは一言、

「心得た」

と、武士のような返事をしていた。キリッという効果音が見えるほどだった。

それなのに、その30秒後くらいに、パリパリパリッという乾いた音が響いた。おじいちゃんは落ちていたガラスをお尻で踏んだようだった。

「何にも心得てないな!」と、おじさんと母は更にいらだちながら、やれやれと言った様子で掃除していた。おじいちゃんは、照れ隠しのためか、何だか澄ました顔でトボけた様子だった。

 

この「心得た」事件の少し後に、おじいちゃんは亡くなられた。特に大きな病気もされず老衰ということだった。

 

そして、我が家では「心得た」という言葉が使われるようになった。

聞いてはいますよ、でも、ちゃんとやりますとは約束しませんよ。

そんな意味を持つ言葉として。結構便利だった。

おじいちゃんのことは苦手だった。けれど、大人になった今、意外とユーモアのある人だったのかもしれないな、と思わずにはいられない。