何にでもなれる世界で、何をして遊ぼうか?
「じゃあ、順番に考えてね! 良かったら、花マルあげるからね」
むじゃきに笑いながら、大人三人に向けてお題を出してくる小学三年生の彼女。
うーん、どうしよう……。
困ったなぁ……。
私と、あきちゃんは顔を見合わせる。
「ふたりとも、付き合わせちゃってごめんね……。なんか、あの子テンション上がっちゃって」
そう言って、なっちゃんは困りながら私達に謝る。
「いや、いいんですけどね。これ難しいね……。なんて言うか、大喜利みたいな……」
アイちゃんは、本を見ながら、少しだけ、眉をしかめている。本当に悩んでいるようだった。
ちょっと前の日曜日のこと。
前職の同期と久しぶりにランチでも、ということでイソイソと出かけていった。
同期、といっても職場は別々。新入社員の研修所で偶然一緒に学んだ仲だ。その新入研修は約1カ月間、寮での生活が必須条件だった。どういった理由で決められたのかはわからないけれど事前に振り分けられた部屋で、共に生活した。そのため、「友達」というよりは「戦友」という呼び方が近いかもしれない。
その中三人のなかでも大学を卒業したのち、1年間フリーターをしていた私は一番歳上だった。そのせいか、部屋割りの段階で「室長」に勝手に任命されていた。
あきちゃんは、高校を卒業したばかりの初々しい18歳。就職試験に合格して、上京してきたのだという。とてもかわいらしい、妹みたいな存在だった。
なっちゃんは大学を卒業し、就職した私のひとつ下の学年の子だった。薄い茶色の瞳と、もともと色素の薄い髪の色で日本人っぽくなくて、フランスかロシアのハーフかな? と思わせるような美人だった。妖精みたいに儚い雰囲気もあって、みんなからの憧れの的だった。
私たちは、勤務地は違うため仕事で直接関わり合うことはなかった。けれど、大きな組織としての会社で巻き起こる問題、例えばセクハラまがいの上司がいるだとか、パワハラまがいの上司がいるだとかの悩みは同じだった。
私もなっちゃんも、その大きな企業の体質が合わなくて、数年勤めたけれど転職した。
あきちゃんは今でもその職場に勤めていて、コツコツと頑張っていた。
結婚や出産なんかもあって、頻繁に会う仲じゃない。けれど、やっぱり久しぶりに会うと一瞬で懐かしさが戻ってくる。あの、狭い二階建てベッドで横たわりながら、これからおきるかも知れない不安を口々に言いあっていた日々。
あの日から、もう十年以上過ぎてしまった。なっちゃんは子供が二人いるママになっているし、あきちゃんは昨年末に結婚したばかりの新婚さんだ。
十年前とは違う想いや悩みをカバンの中にぎっしりとしまい込んで、それぞれの道を歩いている。
しかし、申告な話をしようにも、出来なかった。なっちゃんの子供が「ママのお友達といろいろ遊びたい! お話したい!」とはしゃいで大人の会話にぐんぐんと参加してくるのだった。
「いつもこんな感じじゃないんだけど……」と困っているなっちゃんは、相変わらずかわいらしく儚げだ。だけど、こんなにもパワフルな子供を育てている。ちらりとのぞかせる「肝っ玉母ちゃん」的オーラ。十年前には、想像出来なかった。あきちゃんも、末っ子的な可愛さを今でも持っていた。けれど、時々ピシッと言い放つ厳しい言葉には、ひとつの会社で十年以上勤めてきた覚悟が感じられた。
「本を読んで、静かにしてくれる?」
そう言って、なっちゃんはカバンの中から一冊の本を取り出した。
ヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」という絵本だった。
身の回りにあるものや、人すらも「りんごかもしれない」という発想で作られた、大人が読んでも想像力をくすぐられる内容だ。
なっちゃんの子供は、この本が大好きで読んでいるときは静かに黙って読んでいるのだという。なっちゃんは切り札的にその絵本を持ってきていた。
......しかし。
興奮状態の子供には、逆効果だったらしい。
「このね、絵本だとね。全部りんごかもしれないけれどね。りんごじゃなければ、なんだと思う? 例えばこの絵!」
絵本の中に描かれているイラストを指差しながら私とあきちゃんにどんどん質問を重ねていく。
わたしたち三人は、ゆっくり話もできないし、こうなれば、もうトコトン付き合ってやろう! と気持ちを切り替えた。
この世界は、もしかしたらすべてがりんごのようなものかもしれない。
朝目が覚めて、鏡を見てみたら。
私がりんごになっているかもしれない。
私以外のすべてがりんごになっているかもしれない。
そんな極端なことは、あり得ないと言われるかもしれない。
けれど、自分自身の決断ひとつで、がらりと世界は変わってしまうのだ。
こども向けの絵本ですら、私にとってはハッと目から鱗が落ちるほど、
意味のあるものに変わったのだった。
十年前にはまるで想像もしなかったこと。
だけど、どんなものにでも、自分はなれるし、どんなものでも生み出すことができのだ。
決めるのは自分自身。
大喜利のように、どんどんとお題を出してくる子供の無邪気な笑顔と、
「わたしの質問に、ママたちは絶対に答えてくれる」という自信に満ちた態度を見ながら、私はそんなことを感じていた。