私たちは、狩猟民族である。
「今年は4月29日がベストだって!」
夫がやたらとウキウキした様子でカレンダーに大きくマルをつけている。
うん、そうだねと、私はあまり気乗りしない様子で、適当にあいづちをうつ。
ああ。
またこの季節がやってきたのか……。
今年もまた、潮干狩りのシーズンがやってきた。
4月から5月くらいまでのアサリは、身がぷっくりと膨らんで、食べごろになる。いわゆる旬の食材、といわれるものだ。
私が住んでいる神奈川県の海沿いの町では、4月になると、あちこちで潮干狩りが行われている。ちょうど、ゴールデンウイークとも重なるため、家族連れのレジャーとしても人気があり、毎年多くの人たちでにぎわっている。
残念ながら、私はあまりアウトドアのイベントが得意じゃない。
キャンプも、バーベキューも。
そして潮干狩りも。
嫌い、というわけではないし、誘ってくれたなら、もちろん参加する。
けれど、自分から積極的に「行こう!」とは思えない、根っからのインドア体質なのだ。
日に焼けるのは、嫌だなあと思ったり、トイレにはトイレットペーパーはあるかなあと心配になる。急に寒くなったら嫌だから、上着を持って行ったほうがいいのかなと悩み、イベント前日の天気予報で、降水確率が少しでも高そうなら、雨が降るかもしれない……中止かな? などと、考えてしまう。先回りして心配しすぎて、心の底から楽しめないのだ。
潮干狩りの場合には、さらに「転んでしまって、パンツが濡れたら、どうしよう」という情けない心配まで、おまけでついてくるのだ。
腰を落としてしゃがんだ状態で、バランスを上手く取れる自信がない。
しりもちをつく可能性は、かなり高い。
しかし、アウトドア派の夫は私が気にしているような心配は全くないという。
転んでパンツが濡れたとしても、一向に気にしない。むしろ、アサリを獲るのに夢中になりすぎて、濡れているのに気がつかないことすらある。
毎年、潮干狩りシーズンになるとソワソワしながら、潮の満ち引きが書いてあるカレンダーを入念にチェックする。
「さてさて、今年のチャンスは何回あるかな?」と心の底から嬉しそうに。
私は、結婚したばかりのころに一度だけ、夫と一緒に潮干狩りにいったことがある。けれど、支度に時間がかかり、出かける時間が遅れてしまった。ゴールデンウイークのまっただ中ということもあって、道路も渋滞していた。海岸に到着したときには、すでに大勢の人でにぎわっていた。砂の中にいるアサリの数よりも、おそらくそこで潮干狩りをしている人間の数のほうが多いに違いないと思えるほどだった。あまりの人の多さに夫も私も、やる気を失ってしまった。売店のホットドックを買って、海を眺めながら食べたという記憶しかない。
それ以来、夫の潮干狩りにかける情熱はますますヒートアップしていった。
海辺まで行ったのに潮干狩りが出来ないなんて、あまりにも悔しかったようだ。
みんなが潮干狩りをはじめる前の、3月上旬、早ければ2月下旬に潮干狩りに一緒に行かないか? と誘ってくるようになった。
いくら誘われたとしても、私はそんな時期絶対に行きたくない。
室内にいても寒いのに、海辺に行くなんて寒いに決まってるじゃないか。
アサリなんて、スーパーで売ってるんだし、買えばいいんじゃないの? そう反論すると、怒り出した。
「何言ってるんだ! 砂の中からアサリを見つける楽しみが、弘子には分かんないのか? 宝探しなんだぞ? アサリは、砂の中に眠っているお宝だぞ?」
申し訳ないけれど、夫が潮干狩りにかける情熱は、私には全く伝わらない。元テニスプレイヤーの松岡修造さんばりに、潮干狩りに対する情熱を熱く語り、私にぶつけてくるけれど、私はぜんぜん理解できなかった。アサリを砂の中から見つけることが、まるで宝探しのようだ、というのは分かる。けれど、3月上旬という、場合によっては雪が降ることもある時期に、なぜズボンをたくし上げて海に入れというのか? 風邪をひいたらどうするつもり? こんなに寒いんだから、温かい室内でココアでも飲みながら本を読んでいたい。インドアな私は散々文句を言った。次第に夫は私と一緒に行くことを諦めた。寒い寒いと言いながらも、夫はひとりで潮干狩りに行った。「やっぱりまだ、行ってる人が少ないからたくさん獲れたよ」といって、とても満足そうだった。
ある年に、夫は会社の後輩と潮干狩りツアーに行くと言い出した。
夫の潮干狩りに付き合ってくれるなんて優しい後輩だなあと、思っていたけれど、どうやら後輩に誘われたらしい。なんでも、後輩の地元にある秘密のスポットを知っているらしい。
ちょっと掘るだけでも大アサリ、小アサリがザックザクなのだという。
「密猟にならないの?」
私は心配になったけれど、漁師さんに教えてもらった場所で、漁業権にも問題ないのだそうだ。
静岡県にある秘密の潮干狩りスポットへは、車で片道2時間近くかかるという。出発前に、夫は忘れ物がないように荷物のチェックを何度もしていた。なんども荷物を出したり入れたりしている様子は、遠足に向かう前の小学生のようだった。
「たくさん持って帰ってくると思うから、アサリ料理のレシピを調べといてくれる?」そういって、夫はどれくらいの量なら持って帰って来ていいかを確認してきた。つくだ煮にして、冷凍すれば日持ちするよね、などと言って、夫はいろいろな調理法や保存についても調べていた。
潮がひいている、ベストな時間に到着するように、彼らは深夜に出かけていった。
秘密のスポットだというくらいだから、たくさん持って帰ってくるのだろうか……? 食べきれないと困るし、いくら保存できるようにしても冷凍庫がアサリばっかりになるのはちょっと困るなあ、と考えていた。
しかし。
「取らぬ狸の皮算用」だった。
ことわざって、うまく出来ているんだなあと、心の底からそう思った。
取ってもいない狸の皮や肉でいくら儲かるかを考えて、実際には狸をつかまえてもいないという、ことわざの通りになってしまった。
秘密のスポットに住んでいたアサリは、どこか別の場所に引っ越してしまったのか、ほとんどいなかったらしい。
たくさん持って帰って来たらどうしよう? と心配していたけれど、持って帰って来たアサリは、たったの3粒だった。
狩れぬアサリの殻算用、と心の中でことわざを思いついた。
語呂も合っているし、うまくできたと思ったけれど、あまりにもしょんぼりしている夫には披露できなかった。
その3粒のアサリはお味噌汁にしてあげて、美味しくいただいた。
夫は本当に残念そうだったけれど、懲りることもなく、すぐにまた別の場所での潮干狩りの計画を練っていた。
夫がなぜこんなに潮干狩りに夢中になっているのか分からない。
砂の中にいるアサリを見つけたときの興奮は、たまらないのだと言う。
確かにアサリを、夫の言うように「お宝」だと思えれば、興奮するかもしれないなと思う。
けれど、やはり根っからのインドア体質の私には、夫と一緒に狩りにいくのは少々気が重いなあと感じている。
しかし、インドア体質の私にも「宝探し」とも思える出来事を見つけてしまった。
それは「古書店めぐり」だ。
先日、西洋のアンティークがあつまるイベントに興味があって、神保町まで出かけた。
神保町へ行くのは生まれて初めてだった。JRの御茶ノ水駅を降りたところからちょっとした旅行気分だ。
JR御茶ノ水の駅前は、大学病院が立ち並んでいて、ギターなどの楽器を取り扱っているお店がたくさんあった。
イベント会場のある靖国通りがどちらか、自信がなかったので、交番で道を聞いてから歩いていった。楽器を売っているお店が並んでいたかと思えば、明治大学や日本大学の校舎がある。次第にカレー屋さんが増えてきた。キョロキョロと周りを見ながら歩いていくと、靖国通りに行き当たった。
信号を渡った先には、様々な古書店が立ち並んでいた。
お店の前に飾られている、古めかしい本に思わず吸い寄せられる。
少し日に焼けて、茶色くなっているけれど、きれいな装丁の本が山積みになっている。この町にある古書店を、かたっぱしから訪れて、じっくりと本を探したい! そんな思いで、胸が熱くなった。
何でもっと早く、この町に来なかったんだろう? こんなにもたくさんの宝の山が、町のいたるところにあるのに!
アンティーク品のイベントもとても興味のあるものだったけれど、私は古書の町そのものに魅了されてしまった。
お店によって、取り扱っている本の種類はさまざまだ。古い本のにおいに囲まれるだけで、私は満ち足りた気持ちになった。
山のようにある本の中から、私だけのお宝を探したい! そう思ったけれど、あまりにも舞い上がってしまって、ゆっくりと本を選ぶことが出来なかった。
かならず、リベンジしてやるぞ! そう思いながら、神保町を後にした。
私にとって、古書店のなかから本を探すことと、夫にとっての潮干狩りは同じことなのだろうと思う。
自分にとって、「お宝」と呼べるものは何だろう? アサリか、本か。方向性は異なるけれど、同じことなんだと気がついた。
思えば、本との出会いは、狩りのようなものだ。
自分のすきな作家で選んだり、知らない人が書いているけれど何となく面白そうと思ったり。
話題になっているから手に取るし、本の装丁が気に入って購入するもののある。
自分自身の本へ対する狩猟本能を働かせて、売り場にあるたくさんの本の中から、自宅に持って帰る本を選ぶのだ。
本を選ぶときの、ワクワクしている気持ちは、誰にもとめられない。
アサリが身体への栄養になるならば、本はココロへの栄養になる。
栄養失調にならないためにも。
私たちは日々、狩りをやめられない。