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ひろこの睡眠学習帖

寝言のようなことばかり言っています。

失意の底にいた私を、浅田真央選手の演技が救ってくれた。

2017年4月10日。

 

浅田真央さんが、フィギュアスケートの選手を引退を発表された。

ブログで引退への心境をつづるなかで

「これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています」

 

このように、書き記されていた。

 

この言葉を読んで、ほんとうに涙が止まらなかった。

 決断は決して後ろ向きなものではなくて、
これからの人生を歩むための一歩なんだと、思う。

 

ほんとうに、お疲れさまでした。

あの日、助けてくださってありがとうございました。

そう、こころから、お礼を言いたい。

 

 

私は、過去に、浅田真央選手のフィギュアスケートの演技に、大きく勇気づけられたことがある。

 

 

***

 

2010年1月のこと。

 

私は、結婚したばかりで、夫と神奈川県にある

小さなアパートで暮らしていた。

 

結婚してすぐには子供はつくらなくていいね、と言っていたけれど

なんとなく生理も来ないし

あれ? もしかして? 

という予感があった。

 

だけど、女の人ならわかると思うけれど

生理なんて、ちょっとしたことでリズムも変わってしまうし

そのときも、なにかとイライラしたことが多かった。

 

「ああ、きっとストレスで遅れてるんだろう」

 

そう思って

薬局で売っているカンタンな検査もせずにいた。

 

お正月のにぎやかさが落ち着いて実家の大阪に帰省をしたときに

母親に

「生理がおくれてて、もしかしたら妊娠してるかも?」

と、なんとなく伝えておいた。

母も、「ふーん。まあでも、かなり遅れてくることもあるしな」

と、期待しすぎない様子で、私にそういった。

 

本当は、嬉しかったと思う。

もしかしたら初孫が生まれるかもしれない。

そう思ったに違いない。

けれど、私が過去にホルモンバランスを崩す病気をしているし、

あまり「期待しています!」と宣言してしまうと

重荷になるだろう、と気遣ってくれたのだと思う。

 

「神奈川にもどったら、検査してみるわ」

 

それだけ言って、その話は終わりにしておいた。

 

数日後、神奈川の小さなアパートに戻って

薬局で売っている妊娠検査薬を購入した。

数種類販売されていて、

2個入りだとか、「分かりやすい!」だとか、記されていた。

こんなに種類があるなんて、と

戸惑ってしまったけれど、一つだけ入っている、一番無難そうに見えるパッケージのものを手に取った。

 

 

妊娠検査薬を購入するに時になると

もう、「私のお腹の中には、生命が宿っている」ということに

なんとなく、気が付いていた。

なぜかと聞かれてもわからない。

いわゆる、つわり、と呼ばれる症状は、まだなかったけれど。

ただ何となく、日に日に強くなる存在感が、下腹部にあったのだ。

なんとなくその存在感に、支配されてきているような、

空恐ろしい感覚も、少しだけ感じていた。

 

夫が夜の遅い時間に帰宅して

二人でいるときに検査をした。

 

妊娠検査薬に尿をかけて

どうなれば陰性で、どうなれば陽性なのか。

 

間違えてしまうと

爆発してしまうゲームのように

何度も何度も、確認しながら、トイレに向かった。

 

検査の結果は、陽性だった。

私と夫は、戸惑いはあったけれど

これから親になるのだという、

決意と、じんわりとした暖かな喜びにつつまれていた。

 

翌日、私はいそいそと婦人科に向かった。

寒さの厳しい、一月下旬だったけれど、

少しづつ梅の花のつぼみが膨らみ始めていることや、

八百屋の店先で売られている焼き芋の甘い香りにうっとりしながら

軽い足取りで、でも決して転ばないように歩いて行った。

 

その病院は、いつも婦人科検診をうけている

顔なじみの先生だった。

 

受付で、妊娠検査薬で陽性だったことを告げた。

受付のお姉さんに言われるままに、

体重をはかったり、尿を採取したりした。

「あぁ。これから、妊婦生活が始まるんだなあ……」

と、てきぱきとエコー検査を進めていく

看護師さんと先生の動きについていけず

嬉しい気持ちと、不安な気持ちがグルグルと渦巻いていた。

 

「おめでとうございます。妊娠していますね」

先生から、こう告げられて、ようやくホッとした。

けれど、その直後。

 

「ですが、エコー診断の結果が少し気になりますね……。

胎児の成長が、遅い、最悪の場合には、止まってしまっている可能性もあります」

「え?」

私は、すぐに理解できなかった。

いや、頭では理解してはいたけれど、

こころが理解したくなかったのだと思う。

 

「止まってるっていうのは……? えっと……どういうことですか」

私は、取り乱さないように、必死に冷静に装った。

先生は、伝えても大丈夫だと認識したらしい。

「はい。今の月齢ですと、もう少し大きくなっているのが通常なんです。

いまの、倍くらい、ですね。成長が遅れている、ということもありえますから一概には言えませんが、これ以上、胎児が成長しない可能性があることも、理解してください」

「……流産、ということですか?」

確信めいた単語を、先生は濁していたため、思い切って私が告げる。

「可能性として、ありえる。そういった段階です。

まだ決定しているわけではありませんので、また、……そうですね、一週間後の火曜日に様子を見せにきていただけますか?」

 

先生は、カレンダーを見ながら、私にそう伝えた。

「はい。わかりました」

これから成長する可能性もあるし、その反対もある。

出産予定日や、どこで出産を希望するか。

里帰り出産なら、早めに手配をしないといけないなど、

いくつかの注意事項をうけた。

 

翌週の検査の予約をし、病院を後にした。

 

病院からの帰り道。

朝来た時の気分とは正反対で、ふらついて

グラグラと、いつ転んでしまってもおかしくない足取りだった。

 

夕飯、作る気力が沸かないな……。

そう思って、私はデパ地下のお総菜コーナーで買い物をして帰ろうと思った。

 

たくさんの食べ物がつやつやと、並んでいて

いつもなら、嬉しい気持ちが勝って「あれもこれも」と買いたくなってしまうのだけれど、その日はどれも、食べたいとは感じられなかった。

色とりどりの野菜や、きれいに盛り付けられているお総菜も、

ただ、砂場の山のように灰色のかたまりに見えた。

 

 

……そうだ。

お母さんに電話しよう。

実家の母に、今日婦人科に検査に行くことをメールで伝えていたんだった。

心配してくれているだろうな。

……ぬかよろこびさせてしまったな。

 

そう思いながら、騒がしいデパ地下の隅で、こっそり実家に電話をかけた。

 

「もしもし? おかあさん? ひろこやけど」

少しのコール音の後に、母が出てくれた。

母の声を聴くと、安心してしまって、急に涙が込み上げてきた。

 

「ひろちゃん、どうしたん?」

「今日な、検査いってんけど……。お腹の子は、もう大きくならへんかもしれん、って言われてな……」

それ以上、私は言葉を発することができなくなった。

涙が、次から次へと溢れてきて止まらなかった。

 

電話口の母は、

「何泣いてんの! あんたがしっかりせんと、どないするんや? 大きくなるかもしれへんねんから。泣いてたらあかんやろ」

そういって、私を叱るでもなく、励ますでもなく、ただ一人の女として、母親として私に「どちらにしても、覚悟をしなさい」と、伝えてきた。

 

「……うん。そうやね」

デパ地下の隅で泣き崩れている私に、親切そうなおばあさんが心配げな表情で、

こちらの様子を伺っていたけれど、少しして去っていった。

 

泣きながら母とはなして、ようやく少しだけ落ち着いた。

 

母という存在を、私は、とても大きく感じた。

同時に、私自身は、おなかの中にいる小さな生き物に対して

母親には、なれないのかもしれない、と思うと

また涙がこぼれてしまいそうだった。

 

よろよろになりながらも帰宅した。

夜遅くに帰ってきた夫にも、今日の検査結果を報告した。

 

母に話した時のように、涙がこぼれてしかたない、

というようなことはなかった。

夫には事実をきちんと伝えなければと、

必要以上に冷静さを保ちながら話をした。

 

たぶん、夫に心配をかけたくなかったんだと思う。

それに、たぶんまだ、心の内をすべてさらけ出すのが怖かったのかもしれない。

家族になって、まだ一年もたたない人なのだと思うと、

信頼はしているけれど、どこかまだ、「自分のことは自分でやらなきゃ」と

考えていたところもあったのだ。

 

二人の将来を決定づける大切な出来事であるにもかかわらず

私は、やはり夫の気持ちに負担になりすぎてはいけないと、気を使っていたのだろう。

 

検査の結果を聞いた夫は、私の想像したとおり、

かなり心配していた。

「まだわかんないんでしょ? 楽観的に考えたいね……」

とはいうものの、表情は明らかに、これから起きるであろう最悪の事態を想定していた。

 

「とにかく、あまり身体に負担のかからないように。

来週の検査まで、静かに一週間過ごそう」

そう、二人で決めた。

 

粛々とした日々を過ごしていた。

当時、私は仕事をしていなかったので、できる限り外出もせずにいた。

なるべく考えないようにしたかったけれど、どうしても暗いイメージばかりが頭の中をよぎってしまう。

 

振り払うようにして、テレビをつけると、まもなく開幕するという

バンクーバーオリンピックの特集が組まれていた。

ぼんやりとテレビを見ながら、華やかなフィギュアスケートの世界を見つめていた。

女子は、日本の浅田真央選手と、韓国のキムヨナ選手が一騎打ちになるであろうことで

世間は大賑わいだった。

 

氷の上で表情豊かに踊り、滑る彼女たちはまるで、オルゴールのうえで回り続ける、お人形のようだった。

 

浅田真央選手のインタビューや、これまでの演技などを見ていると

無心になれた。

トリプルアクセルという諸刃の剣になりかねない彼女のジャンプを、

テレビ越しに、ただただ、眺めていた。

ただただ、彼女のスケートがキレイだと思いながら。

 そうして、私は少しずつ、心の準備をしていたのだと思う。

 

 

一週間後の検査を待たずして、私は流産した。

 

日曜日の昼過ぎに、猛烈に下腹部が痛くなった。

むしり取られ、絞り出されるような強烈な痛みが襲ってきた。

「出産の痛みは、これの何倍も痛いんだろうなあ……」

と、痛いながらも、なぜか客観的な自分がいた。

悲しい、というよりは

ああ、やっぱり、この子は早く出て行ってしまったな、という気持ちが強かった。

夫に救急病院へ電話してもらって、

当直のお医者様と痛みのさなかで話をした。

 

今出ている血液は、そのうちにおさまること。

強烈な痛みも、そのうちにおさまること。

救急車を呼んでもいいけれど、今の状態なら

自家用車で病院まで来てほしいということ。

 

夫に車の準備をしてもらって、

私は救急病院へ向かった。

車に乗るときは、もうさっきまでの搾り取られるような

猛烈な痛みはまったくなかった。

猛烈な嵐に襲われていたのに、あっという間に過ぎ去って

何もなかったかのように、晴れ間が広がっているみたいだった。

 

嵐は痛みも、悲しみも、胎児すらも。

なにもかも連れ去っていって

あとには、ただポツンと、私のこころだけが、取り残されていた。

 

 

救急病院で一通りの処置を受け、妊娠初期の流産は、10人にひとりはある事だと説明された。

入院することもなく、帰宅して良いと言われた。

 

 

 

帰り道では言葉少なげに夫と二人で、

ただ音楽を聴きながら自動車を走らせてもらった。

なにか、食べられるなら、食べた方がいいんじゃない? と

夫は気を遣って、お弁当屋さんで、私が好きそうなものを見繕って

買ってくれた。

 

私は悲しかったけれど、泣くこともなかった。

無理やりお腹がすいたふりをして、

「疲れたし、おなかすいたわ。プリンも買って帰ろうか」

と、必要以上に元気なそぶりを見せて、少しでも夫を安心させようと振舞っていた。

夫も、私が演技をして明るく振舞っていることを分かっていたけれど

騙されてくれていた。

 

家に帰ったら、何事もなかったかのように

サザエさんが放送されていて、当たり前の日曜日が、過ぎ去ろうとしていた。

私達は、静かに、味のしないお弁当を食べた。

 

 

次の日は、朝起きると雪が積もっていた。

寒くて、こんなにも寒い世界には出てきたくはなかったんだろうなと、

なんとなく考えていた。

 

安静にしているように言われていたので

また、テレビをつけた。

テレビでは、また浅田真央選手を応援する番組が放送されていた。

スケートリンクにいるときの浅田選手は、とても厳しい表情だったけれど、

神々しくもあった。

 

まるで、お雛様のようだった。

 

柔らかい表情で、私を許してくれたり

厳しい表情をみせて、私を叱咤してくれていた。

 テレビ越しではあるけれど。

浅田選手の挑戦から、私は目を離せなかった。

 

体調が良くなると、私はすこし実家に戻ることになった。

昼間に、一人で過ごす時間が長すぎるのを、夫が心配したのだ。

夫は、明らかに私が無理をしていることを感じとっていた。

私は私で、夫の仕事が忙しいのに心配させては行けないと、気を遣っていた。

 

2月中旬に、大阪の実家に戻った。

ちょうどオリンピックもはじまっていた。

 

父も、姉も必要以上に心配することなく、普通に接してくれた。

母は、「疲れたやろ」と言って、ぎゅっと私を一度だけ抱きしめてくれた。

 

姉はオリンピックが好きなので、様々な競技を録画しては「ひろちゃん、一緒に見よう」と誘ってくれた。

ショーン ホワイトのハーフパイプを見ては興奮したり、カーリングを見ては「あれ、一回やってみたいなー」と、のんきに話していた。

そうした、何でもなく流れている時間が、私にはありがたかった。とても。

 

オリンピックも後半になり、フィギュアスケートが始まった。

男子は高橋大輔選手の素晴らしいパフォーマンスに心が痺れた。

 

女子は、やはりキムヨナ選手と浅田真央選手のどちらかが、という張り詰めた雰囲気だった。

 

浅田選手の、フリー演技。

ラフマニノフの「鐘」という曲に合わせて

氷の上を滑らかに踊る。

 

しかし。

神様は残酷だった。

浅田選手は、銀メダルだった。

 

 

どれほど努力しても、1番欲しいと思っていたものが手に入らないなんて。

浅田選手の頑張りは、テレビを通じてしか知らないけれど。

ちょっとした運命の流れが明暗を分けてしまうのだと感じた。

 

浅田選手の悲しみと、私の悲しみとのベクトルは全く違う方向だ。

国民的に愛されているスポーツ選手の気持ちなんて、私にわかるはずもない。

けれど、なぜか、ふいに「今回の事は、仕方なかったんだ」と思えた。

 

浅田選手も、またここから自分の目標に向けて歩むんだと思うと、「私も、また頑張らなきゃ」と、素直にそう思えた。

 

一緒にテレビを見ていた姉に

「私もまた、がんばるわ」と伝えると、姉は静かに頷いてくれた。

 

***

 

人生のひとつの通過点が、たくさんあるだろう。

点と点が繋がりあって、線が道をつくることにもなる。

わたしの人生のひとつの通過点には、確かに浅田真央選手のバンクーバーオリンピックの演技があった。

 

あの日、あの演技を見なければ

私はまだ点を通過できずにいたかも知れない。

 

浅田真央さんにありがとうと伝えたい。

これから歩まれる道に、たくさんの笑顔がありますように。

 

 *長くなりました。お読みいただきまして、ありがとうございます。