毎日繰り広げられる、ちょっとした攻防戦
「ねぇ、起きてよ。ねぇ、起きてよ。ねぇねぇ」
……しつこいなぁ。
いったい、いま何時なんだろう?
ビッタリとくっついて、離れないまぶたを無理やりこじ開けてみる。枕元に置いてあったスマホを手探りで持ち上げて、ホームボタンを押す。真っ暗闇には刺激的すぎる光が、私の眼に突き刺さる。
3:46
画面に映し出された時刻を見て、私はうんざりする。
……まだ早過ぎるんだよねぇ。
素知らぬふりをして、私はまたまぶたを閉じる。しかし、私を起こした声の主は諦めない。「ねぇ、寝ないでよ? 僕は起きちゃったんだからさ。ねぇ。つまんないんだけど」
そう言いながら、私の頬を柔らかい手で、へしへし触り、首筋に鼻先を近づけてくる。
鼻息がサワサワとこそばゆい。
……うーん、さすがに無視し続けるのもかわいそうかな?
寝ぼけながらも私はぺらりと掛け布団をめくり上げて、彼を招き入れる。彼はいそいそと布団に潜り込んでくる。私の身体にぴたりとカラダを添わせて、心地よさそうな声を出す。
「ちょっと寒くなってきたから、ここが落ち着くんだよね」そう言って幸せそうにしている彼を見てしまうと、どうしたって怒ることはできない。たとえ、まだ夜も明けておらず、活動しているのは幽霊ぐらいしかいない丑三つ時に毎晩毎晩起こされたとしても、だ。
朝を告げる鳥の声が聞こえてくると、彼はそっと布団を抜け出す。窓辺に行って、カーテンの隙間から外の様子を伺う。朝刊を配達する新聞配達のバイクの音に耳を傾けながら、静かに外を眺めている。
鳥の姿を見つけられない日は、つまんなさそうに、また私の側へやってくる。
「ねぇ、外はもう明るくなってるよ? まだ、寝てるの? ぼくは、もう起きようかな?」
そうしてまた、私の布団にモゾモゾと入り込んできては、私のふくらはぎにそっと歯を当ててくる。……甘噛みだとしても、痛い。
「痛いから、やめて」
そう言っても、彼は諦めない。絶対に。断固たる決意をもって、私を起こすためのミッションを完遂することだけ考えている。
何度かの攻防戦のあと、ついに私は降伏する。
ふとんから起き上がり、彼に誘導されるがままに、彼が求めているモノをそっと差し出す。
求めているモノ。
それは、キャットフード。
彼は満足そうに、カリカリとむさぼる。食べ終わると、スリッと私のふくらはぎにからだをこすり付け、また窓辺の偵察任務をこなしはじめる。
ーー5:36
もうひと眠りできるだろうか?
やれやれとため息をついてから、窓辺に鎮座する猫の頭を何度か撫でたのち、私はまたふとんに潜り込むのだ。
指先と心の共通点
「それ、手でちぎっちゃダメだよ!」
無意識のうちにしていた私の行動に、そばにいた友人がギョッとしていた。
癖、というほどでもないけれど私はいつも指にできた、ささくれを引きちぎってしまうのだ。
友人に止められた、まさに今もそうだった。左手の親指にできた皮膚の違和感を、むしり取ろうとしていた。
「ああ、なんかついつい、ピッとむしり取りたくなっちゃうんだよね。見つけると」
私はちょっと恥ずかしくなって、その手を止めた。けれど、左手の人差し指では、そのピラピラと所在なさげにしている皮膚のかけらを触り続けている。
「この、ささくれは、絶対に取り除きたい」そう思いながら。
「そうやって、ひっぱると、またおんなじように皮膚が硬くなったりささくれたりするから、やめた方がいいよ」
友人は、彼女のきれいな指先を撫でるようにしながら私にアドバイスしてくれる。
うん、そうだよね。やめた方が、いいよね。
愛想笑いをしながら、私は適当に相槌をうつ。本当には、そんなこと思ってもいない。「ああ、早くささくれを取り除きたい!」という思いで狂おしいほどだった。
友人と別れたあと私はすぐに、ささくれをむしる。その左手の親指にある違和感を、放置しておくわけにはいかないのだ。気が急いていたからか、無理やりひっぱってしまう。少しばかり血が、滲み出てすらいた。
だけど私はようやく満ち足りた心持ちになり、ホッと息をひとつ吐いた。
ささくれを無理やり引きちぎるたびに、ちらりと胸にかすめる言葉があった。
「指先がささくれているときは、心に余裕のない状態なんだと思うんです。指先のささくれにも気づけない、心がわさわさしているというか」
言葉だけを覚えていて、誰が言ったのかよく覚えていない。女優さんのインタビューだったような気もするけれど、スピリチュアル系だか占い師の人かも知れない。だけど、誰が言ったかなんて、どうでもよかった。
その言葉自体が私の胸にささくれを生み出すようなものだったからだ。
心がわさわさ 、だなんて。
していないときを、探す方が難しい。
今だって、そうだった。
友人、といっても、もうここ何年もあっていなかった彼女とは生活スタイルも考え方も何もかもが変わっている。それは仕方ないことだし、当たり前なのだろう。
一方では「結婚したい!」と騒ぎながらも、独身を謳歌している。けれども、新しい秋物の洋服に身をつつみ、指先にはキレイに整えられたネイルが輝いている。
一方では「旦那の帰りが遅いのよ」と言いながら、結婚生活の愚痴をこぼしている。結婚という生活のステージは変わったけれど、爪の先はささくれている。洋服だって、何年か前に買ったもの。少し色あせてきているけれど、それには気が付かないふりをして大事に着ている。
どちらがいい、というものでもない。
けれど、結婚したって、生活レベルを下げたくない、という友人を見ていると、なんだか心はわさわさしっぱなしだ。
手がささくれているなら、ハンドクリームを塗ればいいんじゃない? いい香りのするクリーム知ってるよ、と何気なく教えてくれたけれど、ゆったりとした気分で香りを楽しんでいる心の余裕もない。
彼女からしてみれば、私はずいぶん変わってしまったのだろうか?
それとも、結婚していて、うらやましいと思っているのだろうか?
話をしているだけでは、本心は分からなかった。
けれど、せめて 教えてくれたハンドクリームではなくてもいいから。
心に生まれたささくれを、自分でピッとひっぱって
血がにじんでしまうようなことだけは、やめておこう。
何にでもなれる世界で、何をして遊ぼうか?
「じゃあ、順番に考えてね! 良かったら、花マルあげるからね」
むじゃきに笑いながら、大人三人に向けてお題を出してくる小学三年生の彼女。
うーん、どうしよう……。
困ったなぁ……。
私と、あきちゃんは顔を見合わせる。
「ふたりとも、付き合わせちゃってごめんね……。なんか、あの子テンション上がっちゃって」
そう言って、なっちゃんは困りながら私達に謝る。
「いや、いいんですけどね。これ難しいね……。なんて言うか、大喜利みたいな……」
アイちゃんは、本を見ながら、少しだけ、眉をしかめている。本当に悩んでいるようだった。
ちょっと前の日曜日のこと。
前職の同期と久しぶりにランチでも、ということでイソイソと出かけていった。
同期、といっても職場は別々。新入社員の研修所で偶然一緒に学んだ仲だ。その新入研修は約1カ月間、寮での生活が必須条件だった。どういった理由で決められたのかはわからないけれど事前に振り分けられた部屋で、共に生活した。そのため、「友達」というよりは「戦友」という呼び方が近いかもしれない。
その中三人のなかでも大学を卒業したのち、1年間フリーターをしていた私は一番歳上だった。そのせいか、部屋割りの段階で「室長」に勝手に任命されていた。
あきちゃんは、高校を卒業したばかりの初々しい18歳。就職試験に合格して、上京してきたのだという。とてもかわいらしい、妹みたいな存在だった。
なっちゃんは大学を卒業し、就職した私のひとつ下の学年の子だった。薄い茶色の瞳と、もともと色素の薄い髪の色で日本人っぽくなくて、フランスかロシアのハーフかな? と思わせるような美人だった。妖精みたいに儚い雰囲気もあって、みんなからの憧れの的だった。
私たちは、勤務地は違うため仕事で直接関わり合うことはなかった。けれど、大きな組織としての会社で巻き起こる問題、例えばセクハラまがいの上司がいるだとか、パワハラまがいの上司がいるだとかの悩みは同じだった。
私もなっちゃんも、その大きな企業の体質が合わなくて、数年勤めたけれど転職した。
あきちゃんは今でもその職場に勤めていて、コツコツと頑張っていた。
結婚や出産なんかもあって、頻繁に会う仲じゃない。けれど、やっぱり久しぶりに会うと一瞬で懐かしさが戻ってくる。あの、狭い二階建てベッドで横たわりながら、これからおきるかも知れない不安を口々に言いあっていた日々。
あの日から、もう十年以上過ぎてしまった。なっちゃんは子供が二人いるママになっているし、あきちゃんは昨年末に結婚したばかりの新婚さんだ。
十年前とは違う想いや悩みをカバンの中にぎっしりとしまい込んで、それぞれの道を歩いている。
しかし、申告な話をしようにも、出来なかった。なっちゃんの子供が「ママのお友達といろいろ遊びたい! お話したい!」とはしゃいで大人の会話にぐんぐんと参加してくるのだった。
「いつもこんな感じじゃないんだけど……」と困っているなっちゃんは、相変わらずかわいらしく儚げだ。だけど、こんなにもパワフルな子供を育てている。ちらりとのぞかせる「肝っ玉母ちゃん」的オーラ。十年前には、想像出来なかった。あきちゃんも、末っ子的な可愛さを今でも持っていた。けれど、時々ピシッと言い放つ厳しい言葉には、ひとつの会社で十年以上勤めてきた覚悟が感じられた。
「本を読んで、静かにしてくれる?」
そう言って、なっちゃんはカバンの中から一冊の本を取り出した。
ヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」という絵本だった。
身の回りにあるものや、人すらも「りんごかもしれない」という発想で作られた、大人が読んでも想像力をくすぐられる内容だ。
なっちゃんの子供は、この本が大好きで読んでいるときは静かに黙って読んでいるのだという。なっちゃんは切り札的にその絵本を持ってきていた。
......しかし。
興奮状態の子供には、逆効果だったらしい。
「このね、絵本だとね。全部りんごかもしれないけれどね。りんごじゃなければ、なんだと思う? 例えばこの絵!」
絵本の中に描かれているイラストを指差しながら私とあきちゃんにどんどん質問を重ねていく。
わたしたち三人は、ゆっくり話もできないし、こうなれば、もうトコトン付き合ってやろう! と気持ちを切り替えた。
この世界は、もしかしたらすべてがりんごのようなものかもしれない。
朝目が覚めて、鏡を見てみたら。
私がりんごになっているかもしれない。
私以外のすべてがりんごになっているかもしれない。
そんな極端なことは、あり得ないと言われるかもしれない。
けれど、自分自身の決断ひとつで、がらりと世界は変わってしまうのだ。
こども向けの絵本ですら、私にとってはハッと目から鱗が落ちるほど、
意味のあるものに変わったのだった。
十年前にはまるで想像もしなかったこと。
だけど、どんなものにでも、自分はなれるし、どんなものでも生み出すことができのだ。
決めるのは自分自身。
大喜利のように、どんどんとお題を出してくる子供の無邪気な笑顔と、
「わたしの質問に、ママたちは絶対に答えてくれる」という自信に満ちた態度を見ながら、私はそんなことを感じていた。
夏の終わりの夜をみる。
「あっという間に夏も終わりだなぁ……」
誰に、というわけでももなくポツリとつぶやく。
2017年の夏は、本当にいつの間にか終わりを迎えることになった。
ありがたいというか、なんというか、仕事が忙しく立て込んでいてお盆休みも返上で毎日仕事に行った。
あまりにも疲れが溜まり、顔面から足の裏まで、じんましんが隈なく身体中に出て「さすがに今日1日は仕事休みなさい」と薬だけもらいに行った病院でドクターストップをかけられた。その1日だけ休んで、あとはずっと仕事だったと思う。だけどあまりにもあっと言う間過ぎて、むしろもう遠い昔のことのようにも感じる。
「7月って、何してたっけ……?」
とこのブログを書くために思い出そうとするけれど、全然思い出せない。記憶障害かな? と思うほどに何も覚えていない。
ちょっと怖くなって、慌てて手帳を見てみる。7月のはじめにはライブに行っているし、お友達とランチしたり。それなりに充実しているようにも思うし、手帳を見てようやく「ああ、そうだった! ライブ、メッチャ良い席だったなあ」と思い出したりした。
楽しくて、宝石のようにキラキラ輝いている思い出たち。それは、いつの間にか箱にしまわれて深い海底に沈められてしまっている。宝探しに出かけなければ、思い出せないほどに。
ただ、その宝石のような輝きは、決して曇ることはない。着倒して、洗濯しすぎで色あせたTシャツは色あせてしまう。けれどそのTシャツには毎日の何気ない記憶、例えば寝転んでアイスを食べたこととか、汗だくになりながら駅まで歩いたことなんかが染み込んでいて、輝いている。色あせたTシャツは、共にこの夏を戦い抜いた仲間なのだから。
それにしても、毎日仕事を頑張っていたはずなのに状況は変わらない。
ちょっとウンザリしながら、満員電車に揺られて帰る。
帰宅時に自宅の最寄りのバス停で降りて、とぼとぼ家までの道を歩く。
そんな時、いつもふと空を見上げていた。曇っていることも多かった、今年の夏。
けれど、空にぽかりと月が浮かんでいるのを見たとき、ちょっとホッとした。
満ちたり、欠けたりしているけれど。
ふと見ると、いつもそこにあって、「ああ今日も一日がんばったな」となぜか月に向かって、ため込んでいた息を、ふうっと吐き出して歩いていた。
今年の夏は、月に助けられていたんだなあ、と思う。
この三日月の写真は、ピンボケだし、全然さえなくてキレイでも何でもないけれど、
私の今年の夏、そのものだと思う。
なんだか、海に行きたくなる。
「夏」そのものがテーマという映画じゃない。
けれど、この映画には夏の空気がたっぷりと含まれている。
痛いぐらいに照りつける日差しや、汗をかいてべたべたする肌。
そして、風の中に感じるまとわりつくような潮の香り。
映画「海街diary」はどのシーンを切り取っても夏の気配を感じさせてくれる。
映画の舞台は鎌倉。田舎の漁村とはひと味もふた味も違う。やっぱりそこは小洒落た雰囲気を隠すことはできない。
けれど、それでもどこか懐かしい景色を感じるのは、姉妹が住んでいる家のせいかも知れない。
綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆の三姉妹が住んでいる小さな一軒家。そこは夏休みに帰省するお婆ちゃんの家のようだ。狭い間取りに細々と置かれたタンス。畳にちゃぶ台、扇風機。
縁側なんて、今どきの家にはなくて、むしろ羨ましい。
もともとお婆ちゃんが住んでいた、という設定だからちょっとした小物にも歴史があるんだろうなあと思わせてくれる。
狭い間取りの中に、似通った年齢の女が三人も暮らしていると、どこかしら退廃的なムードが漂ってしまう。それは、別に悪い意味じゃなくて仕方のないことだと思う。毎日同じことの繰り返し。姉妹だからか少し詮索したり、必要以上に悪意に満ちた言葉をかけてしまったり。家族という信頼がベースになっているからか、それは愛情もたっぷりと含まれている。けれど、鬱陶しくて遠ざけてしまいたい。そんな袋小路のような場所に、三姉妹は暮らしていた。
そこに、父が遺した腹違いの妹が加わることになる。
広瀬すず。
この子の存在が、やっぱりこの映画をキリッと引き立てるエッセンスなのだと思う。コーラに隠し味としてキュッと絞ったレモンみたいな存在感。
もちろん、主人公的存在なのだけれど、浴衣姿とかちょっとした恋心だとか。
年の離れているし、はじめのうちは心も近しいとはいえない。
けれど、一緒に食事をしたり、街をプラプラあるいたり。何かの作業をみんなで囲んでワイワイと行なうたびに、距離が近づいていく様子が優しく描かれている。
四人の姉妹が暮らす家はたぶん潮をたっぷりと孕んだ風を受けていて、洗濯物なんかも、べたべたしているだろう。風の強い日には波の音が響いて、騒めいているにちがいない。
だけど、そんなこともみんなで共有しながら、暮らしていく厳しさも含めて、優しい家族の物語。
観終わったときには、潮風をたっぷりカラダに浴びたい。波の音を聞きに、海に向かいたくなる映画です。
ダンベルのようなカバンの中身について
今週のお題「カバンの中身」
「うっわ、重い。何入ってるの?」
私のカバンを持ってくれた人たちが、必ず口にするセリフだ。
持ってくれた人たち、と言っても彼氏とか、そんな甘い関係の人はひとりもいない。飲み会だったり、仕事関係で、カバンを空いているスペースに置いとくから、こちらに渡して的な形で何気なく受け取った人たちだ。
「すみません、なんか色々入ってて」と、なぜか申し訳ない気持ちになり、謝ってしまう。
謝る必要なんて、全然ないし、自分でも何故謝っているのかはわからない。けれど「重いものを持たせてしまってすみません」ということなのだろう。
なんでこんなに、重いのだろう?
私が持ち歩いている、重いカバンはありきたりなやつだ。PORTERの3WAYタイプになるものだ。それを肩に斜め掛けにして使用していることが多い。
肩は、カバンの重みでめり込みそうだ。
だけど、もう四年近く使っていて、相棒、と言っても過言ではない。
荷物が多いのかも知れない。
長財布、スマホ、ほぼ日手帳、ポケットティッシュ、ハンドタオル、自宅と会社の鍵、ウォークマン。
まず、これが基本セットとして絶対に入っている。
重いかな? と考えられる要因は、まず「ほぼ日手帳」だろうか。文庫本くらいのサイズがあるので多少ずっしりはしているかも知れない。次に自宅と会社の鍵。これには説明が必要だ。まず、鍵にはキーホルダーが付いていて、お守りと、シルバー製の猫。この猫がわりとずっしりしている。そして鍵。自宅と会社なら二本かと思われそうだけれど、実は五本もついている。
いろいろと、鍵がかかっていて、それらを開ける係なので仕方ない。だけど、この鍵はちょっと重い要因のひとつだと思う。
そして、財布。職場で100円玉と10円玉がたくさん必要になることがあるため、割とお釣りで小銭をもらいたい。財布はいつもパンパンだ。そして、重い。
もう、この時点でわりと重い要因がたくさんあるなと、自分でも驚いている。
しかし。まだまだこれからなのだ。
絶対ではないけれど、カバンに入っているものたち。
ペットボトルのお茶か水(500ml)、仕事で使うためのMacbook air、移動中に読みたい文庫本。
もう、絶対に重い。
三つすべてが入っていないこともあるけれど、ペットボトルは、だいたい入っている。
これには理由がある。
単純に、不安なのだ。
「なにかしらのトラブルに巻き込まれた時に、水さえあれば、多少は生きのびることができる」
この気持ちがずっと心にあるのだろう。どこかに出かけるときには、だいたいいつも、飲み物を持っていないと落ち着かない。
「今日は荷物が多いしなぁ……」と躊躇しても、結局どこかで購入してしまうのだ。
なんで、普段の生活の中でいつもサバイバル気分なのかは分からない。自分でも、全然理解できない。けれど、もしも、と一度でも考えてしまうと、もうどうしようもない。
あまりにも重いカバンを毎日持ち歩いている。けれど「これは、ダンベルだ! 筋トレの一種だ!」と無理やり思うようにして、片手で上下に動かしたりしている。
まあ、あまり、オススメはしないけれど。
野球部のない高校に通っていました
タイトルから、すでにガッカリ感が否めないのだけれど、私の通っていた高校は野球部がなかった。女子校だったわけじゃなくて、普通の公立の高校だった。
私は、高校には絶対に野球部があるものだとなんとなく思い込んでいた。そのため、入学したとき結構ビックリした。
野球部が、ないなんて!
私自身は、運動神経もズタボロに切り裂かれているほどに悪いし、スポーツに興味はなかった。けれど、三つ歳上の姉が高校生だったとき。高校野球への出場権を獲得するための地方大会が始まって、姉は姉自身が通っていた高校の予選を応援しに行ったりして楽しそうだった。お友達同士で、キャアキャア言いながら「これぞ、青春!」みたいな感じだった。もしかしたら、彼氏か、好きな人がいたのかもしれない。
姉の楽しそうな姿を見ていたので、「あー、私も高校生になったら野球部の応援に行くのかな?」なんて、刷り込まれていた。
しかし、姉とは違う高校に進学した私はがく然とした。
野球部がない。
ラグビー部、ある。
サッカー部、ある。
バスケ部、ある。
陸上部、ある。
しかし、野球部が、ない。
なぜか、結構レアだと思うハンドボール部なんてあるのに、だ。
寂しかった。
私の思い描いていた高校生活は、速攻で打ち砕かれた。
近隣の、友人が通っている高校を応援するしかなかった。けれど、やっぱりそれでは全然面白くなくて、実際に球場まで観戦に行くことはなかった。
高校生活から、すでに20年近く経っているけれど、地方大会がはじまると、胸がちょっとキュンと痛い。
父も姉も母校の応援をしていて、「今年は一回戦負けやったー!」とか、新聞の結果を見てそれぞれ盛り上がっている。母は女子校卒なので、もともと関心を寄せていない。
私も、母校という絶対的に応援したくなるチームがあれば良かったなぁと思いながら毎年過ごしている。